我が絶望つつめ緑

ふにょーー面白かったーーータイトルは「まんまじゃん」とか思っちゃったがお話は今までで一番スキかもしんない。ヒャッホーイ。
オーフェンがマジクとの訓練の時何だかそっけないのは、実力に対する密かな自信と、力の使い方を「まだ」知らない所と、そうでありながら身近な力がある者に心のどこかで依存してるような所が、かつての自分と向かい合ってるみたいでなんだか複雑だからで、だからこそ優しい言い方はできなくても決定的に突き刺す事は言えないというか、「月謝もらえるから」という理由にかこつけて向かい合う事で、かつての自分を受け入れて行くような気持ちになってるのかななんて思ったりしたのですが、力の使い方も意志も空気の読めなさも無意識な依存もマジクのきっかり10倍でイチイチいやなツボを押して来るロッテーシャにはそりゃ向かい合えないよなあー。しかも女の必殺技「どうして私の気持ちがわかってくれないの!?」つき(笑)。かつての自分と至らなさの種類が同じで、不運に目がくらんで思いやりがなくなってる娘なんてそりゃイライラしますわな。だからこそ決定的に突き放す事もできないしなあー。ああ面倒臭い。しかもこの物語は「物語のために」キャラクターが一切成長しない! わあ大変。


オーフェンのようになにかってーと5年前5年前と痛まないけど半熟卵のように心に過去がわだかまってる人間にとって、追い求めていることを言葉にするとバカバカしいと分かってるから黙ってるけど思う所はあるニーちゃんにとって、クリーオウの万事が万事「あら、そうなの」で終わってしまう捉え方ってちょっとありがたいような所があったに違いない。そこがいいから他の全てがどうでもいいかというとまたそういう事でもないんだよな。やなもんはやなんだけど、全てがクリーオウだから仕方ないというか。オーフェンは全ての人間に対してそうだすな。面倒に巻込まれるのってただ単にそれが理由なんだと思うんだけど、一生気付かんに違いない。ああ楽しい。


前の話で「君は絶望を知らない」とかいう言葉が出て来たとき、ワタシはとにかく子供の頃からマンガ、小説、アニメ、ゲーム等々の創作物から「こんなものを見てるような幸せでヒマな人間は絶望なんて知らないだろうけど」的な事を言われるのがダイッ嫌いで「こんなものを作ってる大人のくせにエラソウに」とかえらそうなことを思ってて(今思えば子供ってその位の事はわかるんだよなあ…)ちょっとだけ「…フーン」的な気分になったのですが、いやーもうなんかこうアレよ、秋田さんてエンターテイメントだろうがギャグだろうがアクションだろうが作風がふいに変わろうがなんだろうが、絶 ッ ッ 対 に こ の 手 の 事 を 上 か ら 言 わ な い よ ね ! ! キャーしびれるーステキー! 自分が知ってる事を知らない人間を怒ったりバカにしたりする程度のことじゃあないのよ、大人が子供に言う事ってさー。年月しか威張れる事がないなら細胞の数が増えただけの子供じゃーん。量や力で屈服させることに恥じらいがある、がためにすぐ伝わるとも思えない回りくどい事を一生懸命やってる所がスキー。ウヒョー。
これからどうなるのか知りませんが、絶望を手に取ったクリーオウが成す事を楽しみにしたいと思います。いや何も成さないんだろうな別に。それもいい。
愛とか恋とか好きとかいう単語を使わないのって昔だったたら当たり前の美意識だけど、今日び見るとなんだか美しいなァ。



……オーフェン知らない人は(いや知ってる人もか…)奇々怪々な文章だろうなあ…。いやコレだけ考えても原作の人間関係やキャラクターになんらほころびが起きないというか、考えれば考える程繋がって行く所があるのですよ、ということで。……いや、やっぱり思い込みにすぎんか……。